コラム「LOUNGE-7月号」 ―こころの給油所―
(2011年7月5日掲載) 開業して2年にもなると、一旦治療を終了した方がクリニックを訪ねて来られます。再び困難なことに出会い抑うつ的となったり、あるいはエネルギーが切れた状態です。久しぶりに会ったその人に、どう声をかけることができるのか、私はその瞬間に感じることを言葉にします。前回と同じようなことで行き詰まっておられる場合もあるし、新たな問題が発生していることもあります。不思議なもので、同じ人との会話の中にも、以前感じていた雰囲気や醸し出される情緒的なものは、やはり時間の経過とともに変化しています。一期一会と言いますか、二度と同じ間合いの面接にはなりません。
ところで、さまざまな症状の内には、生きることへの繰り返されてきた苦悩が垣間みられることがあります。不安や抑うつの背後に、“自分の損得のために相手に迷惑をかけて申し訳ないことをした”、“あの上司さえいなければ本来はもっとうまく仕事ができるはずなのにと考える自分が嫌である”、“自分なんて役立たずなので生きるに値しないが、いなくなると家族が路頭に迷うので身動きがとれない”など、多くは罪悪感に満ちた不安な思いが秘められています。
症状が優勢な時は薬物治療が有効で、クスリは云わばこころの傷に当てるキブスや包帯であります。それなしでは、恐らく傷口が膿んでしまい、さらに悪化してくれるのを防いでくれます。ある程度傷口が塞がれたのちは、これまで気づかなかった、気づこうとしなかった欲動が姿をあらわします。精神分析的にはリビドーとアグレッション(攻撃性)ですが、これまでは、欲動に翻弄されないように抑圧し防衛して現実に適応してきたのです。あらためて、そこに身を置くことで、あるがままの自分を許すことができれば病気になる前の自己とは異なった新たな自己が手に入れられるはずです。
それには、一旦私たちを無意識に拘束している社会的常識や道徳から離れ、自由な思考に身をゆだねることが必要になります。精神療法では、精神分析における自由連想法であり、媒体を使うのであれば音楽や描画などの芸術療法でありましょう。さらに、治療的な枠組みから離れますが、哲学や宗教もこのような要望に応えてくれます。最近興味深く拝読しましたが、「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」という強烈なパラドックスで有名な「歎異抄」は現代の私たちの魂を揺さぶる魅力ある書物であると思います。人間の行いうる善とか悪が、いかに小さな規模でしかないかがわかり、生き方のヒントが見つかるかもしれません。
―待合室で読める本から―
「歎異抄」 (講談社学術文庫) 海原 猛 全訳注悪人正機説や他力本願で知られる真宗の開祖・親鸞について、師の苦悩と信仰の極みを弟子の唯円が綴った聖典に詳細な語釈、現代語訳および丁寧な解説がほどこされています。日本人の「こころ」を追究する著者の手でよみがえる流麗な文章に秘められた生命への深い思想性があります。「今に生きる親鸞」(講談社α新書) 吉本 隆明 著
親鸞の思想、信仰と生涯について、著者が幼少期から親しんでいた浄土真宗を通した理解を伝えてくれます。「教行信証を読む―親鸞の世界へ」(岩波新書) 山折 哲雄 著
親鸞自身の苦しみと思索の展開をたどりつつ、引用経典の丁寧な読み解きとともに思想の核心を浮彫りにし、平易に叙述しています。